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第17号「なぜ学ぶのか?なぜ学びたいのか?」の続編です。
読者から,「学ぶことに目的は不要で,学び自体が喜びなのでは?子供を見ているとそう思う。」という感想を頂きました。このことを少し考えてみたいと思います。
ご指摘の通り,学ぶこと自体が喜びです。49歳の今の自分は,です。
49歳の自分は,生きているだけで,知らなければならないこと,悩まなければならないことが自然に発生する。その度に,やべー,勉強しなきゃ,に追い込まれて,しこしこ勉強する。対象そのものは,うまくいくこともいかないこともあるが,学ぶことそのもの,新しい発見そのものが喜びです。
この言い方がちょっときれいごとに過ぎるなら,全ては学びだ,と感じられる程度にまで思考の抽象度を上げるずるさを覚えた,と言い換えられるかもしれません。
49歳とは考えの構造は異なりますが,学び自体が喜びであることは3歳児も同じです。生きることが,初めて見るもの,初めて口にするもの,初めて触るもの,との出会いにあふれている。生きることと学ぶことが等価,すなわち,学ぶことが生きる手段であると同時に,目的でもある状態。このステージでは,なぜ学ぶのか,という問い自体が発生しません。手段と目的が一致しているこの状況こそが,生きることと学ぶことの理想の関係だと言えます。
ではなぜ,僕の中でも小学校中学校と上がる過程で生きることと学ぶことが乖離してしまったのか。そこには個人差があるのか,ないのか。そしてそれはどのような回路で,学びが喜びである49歳に戻って来たのか。これが今考えていることです。
頭にあるキーワードの一つは新鮮さ(freshness)。学ぶことが十分に新鮮なら,そこに目的など要らない。目の前の学ぶ喜びだけ感じていればいい。
次回は,この新鮮さについて考えてみたいと思います。
それではよいお年を。