人の内面を大きく簡略化して,ある種のアルゴリズムだと捉えるなら,様々な入力値xに対しての出力値f(x)の集合体が,外から見えるその人である,と言うことができます。
xに「宇宙の全て」を入れた時のf(x)が「取り出し可能な今のその人」であり,それを時間軸で並べた時に現れる多面体が「取り出しうる最大のその人の形」になる感じでしょうか。
主題である,なぜ学ぶのか,に話を戻しましょう。
僕が考えている一つの仮説は,上で関数として表したその人固有のアルゴリズムは生得的なもの,すなわち,生まれた時点で決まっているものなのではないか,ということです。
その時,アウトプットとしてその人から何が出てくるか,は何をインプットしたか,に規定されます。
どんな大天才も,対象との出会いがなければ発現しようがありません。イチローという関数は,「野球」というインプットがなければただの偏食のサラリーマンだったかもしれません。村上春樹という関数は,彼が旧石器時代に生まれていたら,ただの語り上手な村人だったかもしれません。
現実には,一人の人間関数に宇宙の全てを入力することは不可能です。入力したものの出力値としてしかその人を取り出すことができないなら,何を入力するかこそが人生を決めるとも言えます。
学ぶという行為は,社会に自分を合わせるための訓練ではなく,自分という固有の関数を発見する旅だとも言えそうですね。
だからと言って,できるだけ多くのものを幅広く詰め込めば豊かな人生になるというわけではないような気がします。
それがなぜなのか,をまた次回考えてみたいと思います。